ミッドセンチュリーの
名作を生んだ
ふたりのイームズ【Eames】

イームズ夫妻

現在もインテリアで親しまれている代表的な椅子のひとつ「シェルチェア」

そのデザインを手掛けたふたりのイームズ、チャールズ・イームズとレイ・イームズは家具デザインが次々と誕生した黄金期のミッドセンチュリーモダンを語る上では欠かせない存在です。そこにたどり着くまでにはこのふたりのデザイナーが歩んだ歴史と作品にかける思いがありました。

チャールズ・イームズの生い立ち

まずは妻のレイ・カイザー(後のレイ・イームズ)と出会う前のチャールズ・イームズの生い立ちからお話したいと思います。

彼の正式な名前はチャールズ・オーモンド・イームズ Jr(Charles Ormond Eames, Jr)

実は彼の父も同じ名前でした。そのため彼の名前には最後にJrとついています。

1907年、チャールズ・イームズはアメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスで生まれました。

12歳の頃、父親が他界。この頃、彼は生前、写真が趣味だった父親が残した遺品のカメラ機材を使い、写真を撮ることを始めるようになりました。

2年ほど過ぎると彼が家族の中で男手一人であったこともあり、アルバイトなどをしながら家計を支え始めます。

高校時代には放課後や週末になるとレイクリード・スチール社で製図工の見習いとして勤め、設計などを任されるようになり、製図というものを身につけることになります。

これが彼が建築家としての人生をスタートさせていくキッカケのひとつとなったのでした。

優秀な生徒だった彼は、1925年に奨学金を得て、セントルイス・ワシントン大学建築学科へ入学します。しかし2年目になると、大学での古典建築の教えや伝統的な教育を受け入れることが出来ず、研究課題として彼が魅了されていたモダン建築家のフランク・ロイド・ライトについて取り上げることを教授らに提案。その結果、彼は近代建築に熱くなり過ぎてしまい、放校処分となってしまいます。

大学在学中では最初の妻、キャサリン・デューイ・ワーマンと出会い、1929年、22歳の時に彼女と結婚をします。そして新婚旅行で訪れたヨーロッパ旅行で、ル・コルビュジエ などのモダニズム建築に触れたことで開花していきます。

1930年、アメリカは世界大恐慌の真っ只中で仕事がほとんどなく、チャールズ・イームズは友人のチャールズ・グレイ、その後にはウォルター・ポーリーも加わり建築事務所を開設しますが、世界恐慌の影響で業績は思わしくありませんでした。

その後、彼は家族をセントルイスに残し、メキシコへと旅立ちます。メキシコでの生活状況はかなり厳しいものでしたが、そこでのエスニック感のある自然な色彩の数々と建築物がその後の彼に大きな影響を及ぼすこととなるのです。

そんな中、キャサリン・デューイ・ワーマンとは後に娘のルーシアをもうけますが、1941年に離婚することとなります。

その後、メキシコからセントルイスに戻った彼はまた再起をかけて、ロバートウェルシュとともに再び建築事務所を設立します。

そこで設計した聖メリーズ教会が「アーキテクチュアル・フォーラム」に取り上げられ、それを見たフィンランド人建築家エリエル・サーリネンが手紙を送ったことで交流が始まり、1938年、彼が31歳の時にサーリネンの誘いを受け、ミシガン州のクランブルック美術アカデミーの特別研究員となります。

翌年の1939年にはインダストリアルデザイン科教授、40年には同科の学長となり、ここで彼の人生に大きく影響する事となるレイ・カイザーと出会いが訪れます。

彼女もまたアカデミーに入学する前、ニューヨークでドイツ人の抽象画家ハンス・ホフマンが創設した美学校で6年間ホフマンの元で絵画を学び、24歳の時、アメリカ抽象芸術家協会というグループの創設メンバーになるなどの活躍をしていました。

1941年にお互いの才能を認め合い、彼はレイ・カイザーと結婚をし、その後、生涯の拠点となるロサンゼルスに移住、そして2年後の1943年、ヴェニス地区ワシントン通り901番地にイームズ・オフィスを開設します。

その後は40年間にわたってレイと共に20世紀のデザインに大きな影響を与える作品を残し続けるのでした。

ミッドセンチュリーとイームズ夫妻

レイ・カイザーとチャールズ・イームズとの出会いは1940年、MOMA(ニューヨーク近代美術館)の『オーガニックファニチャーコンペ』に彼がエリエル・サーリネンの息子のエーロ・サーリネンと共同で応募したプライウッドチェアを手伝ったことでした。応募した部門で最優秀賞を獲得、その時、出品されたプライウッドチェアではイームズのデザインの特徴的素材でもある、つまり成形合板が使われていたのでした。

結婚後、チャールズとカイは移り住んだロサンゼルスで『カリフォルニア・アーツ&アーキテクチャー』誌の編集長をしていたジョン・エンデンサと出会います。『オーガニックファニチャーコンペ』で彼らの作品に感銘を受け、チャールズに共同編集人の誘いをかけます彼らはこの誘いを受け、レイは1942~44年の間、多くの表紙デザインを手掛けました。

イームズ夫妻は建築、家具のデザインを作り続け、成型合板の研究に明け暮れました。

第二次世界大戦中は軍からの受注で、担架、飛行機のパーツなども製作、中でも「レッグ・スプリント」と呼ばれる木製ギブスは15万本も製造されました。

家具では当時ジョージ・ネルソンがディレクターを務めるハーマン・ミラー社と契約。

初期に手掛けていた成形合板加工の他にもプラスチック、グラスファイバー、ワイヤーメッシュ、アルミなどの素材を使い、画期的で洗練されたデザインの家具の数々をハーマン・ミラー社に提供していました。

2人の活動はそれだけにとどまらず、映像、写真、グラフィックデザインなど、60~70年代のモダンデザインの革命的な成果となる活躍となったのです。

イームズデザインの建築と家具

ミッドセンチュリー(mid-century)とはどういう意味がご存知でしょうか?

直訳すると、世紀の真ん中という意味で、1900年代中期にインダストリアルデザイン(工業デザイン)がアメリカでブームとなったことを指すことが多いです。

なぜこのブームが起きたかという説で、ひとつは第二次世界大戦終結後、アメリカ軍兵士が帰郷し、多くの若者が家庭を持ったために住宅ブームが起こり、家具の需要が増えたことと、そしてもうひとつは当時バウハウスで代表されるデザインが影響を与えていましたがヒトラーに頽廃的と弾圧されました。そしてバウハウスにいた有能な教師陣などがアメリカに亡命してきた結果、 アメリカにデザインの本場が移動したことであると言われています。

そして、この時代のパイオニアとも言えるのがイームズなのです。

では、その代表的な建築や家具を一部ご紹介します。

ームズ邸「ケース・スタディ・ハウス No.8

当時アメリカの建築雑誌『arts & architecture』が1945年から66年のおよそ20年間、36のケース・スタディ・ハウスを掲載していました。

その8番目として編集長だったジョン・エンテンザの依頼を受け、エーロ・サーリネンと共にイームズ夫妻が設計したのが自邸の「イームズ邸」でした。

この企画は著名な建築家に依頼し、資材メーカーなどとタイアップしながら、戦後に需要が拡大した住宅の供給不足に備え、ローコスト住宅の設計施工モデルを模索提案する目的を持ったプログラムでした。

イームズ邸は建築費を抑えるため、部材の全てをアメリカ国内で流通している既製品で構成し、新たな建築のあり方を提案したものでした。

当初の案は、ロサンゼルスのパシフィック・パリセーズ地区のエンテンザ邸(ケース・スタディ・ハウス♯9)の隣の敷地に、太平洋を見下ろす長く大きなガラス開口を有した直方体の建物が、斜面からカンチレバーで持ち上げられ丘から張り出すようなプランでした。

しかし、実際に出来上がったイームズ邸は、その案ではなく、谷に面し、丘に寄り添ったような感じで佇み、軽快な鉄骨造の構造体にはガラスの開口部があり、そこに沿うようにユーカリの樹木が植樹され、建物を覆い隠していたように建てられた、当初の計画よりシンプルなものでした。

これは1947年にMOMAで開催されたミース・ファン・デル・ローエの展示会で、チャールズ・イームズが同じようなスタイルのカンチレバーによるスケッチが出品されていたのを目にして、プランを変更したといわれています。

シェルチェア             

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Photo:Herman Miller HP

イームズ夫妻が生み出したデザイン家具のほとんどが椅子でした。

その中でも1950年に当時ではまだなかった大量生産・軽量・低価格で販売されたのがシェルチェアでした。

最初は金属製のシェルチェアを作ろうとしていたチャールズ・イームズでしたがFRP(繊維強化プラスティック)という新しい素材と出会い、その技術の発展により金属よりも軽くて丈夫、かつローコストが実現したシェルチェアが誕生しました。

当時、アメリカでとても人気となり、その後の家具デザインにも影響を与え、現在も親しまれています。

他にもラウンジチェア&オットマン、ウォルナットスツールなど現在でも有名なチェアのデザインが数々あります。

愛され続けるイームズデザイン

チャールズ・イームズは、1978年8月21日にセントルイスへの帰省中に心臓発作で息を引き取ります。そして妻レイ・イームズも息を引き取ったのは、なんとちょうど10年後の同じ日付の1988年8月21日だったのです。

イームズ夫妻はデザインについて「一夜にしてできるものではなく、時間をかけてはぐくまれるもの」と考え、プライウッドのチェア開発についてもチャールズ・イームズは、「直観のひらめきでした、30年かかってひらめいたのです」と述べていました。

イームズ夫妻は共にお互いの才能をリスペクトし合いながら、厳しい時代を乗り越え、住まう人々のために快適さを追求し、そして技術を研究し続けました。

ミッドセンチュリーのデザインを語る上でなくてはならない存在となっているのです。

 

Herman Miller HP

https://www.hermanmiller.com/ja_jp/

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