フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠』とも言われ、その時代を牽引した20世紀を代表する建築家のル・コルビュジエ。
数々の建築デザインを生み出し、現代でもそのデザインに魅了されている人々もたくさんいます。
ル・コルビュジエとはどのような人物だったのか、そして、こだわり続けた『近代建築5原則』や設計の原点と深掘りしていきたいと思います。
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建築家ル・コルビュジエの誕生
ル・コルビュジエ(Le Corbusier)は1887年にスイスで生まれます。本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレ=グリ。
父は時計の文字盤職人だったため、家業を継ぐために地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んでいました。しかしル・コルビュジエは視力が弱かったため、精密な加工を行わなくてはいけない時計の職人としては難しく、別の道を目指すようになっていきます。
その後、美術学校に入り、そこで校長のシャルル・レプラトニエに才能を見出され。1907年に彼へ建築家ルネ・シャパラと共に「ファレ邸」の設計に携わるよう勧められるのです。
そして、その「ファレ邸」こそがコルビュジエの最初の建築作品となるのでした。
その翌年の1908年には、パリへ行き、鉄筋コンクリートの建築家で「コンクリートの父」とも言われたオーギュスト・ペレの事務所に、また1910年にはドイツで建築家やデザイナーらが参加し、モダンデザインの発展にも繋がった『ドイツ工作連盟』の中心人物ペーター・ベーレンスの事務所に籍を置き、そこで本格的に建築を学びます。
1911年から約半年間、コルビュジエはベルリンから東欧やトルコ、ギリシャ、イタリアを巡り、ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で教職に就いた後に、1914年には住宅の鉄筋コンクリートによる工法「ドミノシステム」を発表します。
また1920年にはダダの詩人のポール・デルメ、ピュリズムの画家のアメデエ・オザンファンと共に『レスプリ・ヌーボー(L’esprit Nouveau)』を創刊し、話題を呼びます。彼が「ル・コルビュジエ」というペンネームを使ったのはこの頃でした。
彼はその後も活動を続け、スイスで数々の邸宅やクラルテ集合住宅やフランスではサヴォア邸やロンシャンの礼拝堂など様々な国々で70以上の作品を発表します。その中でも7カ国17作品は世界遺産にも登録され、日本で唯一、設計に携わったとされる国立西洋美術館も登録されています。
「住宅は住むための機械である」
この言葉はル・コルビュジエがその思想を表現した代表的なものとして知られています。
「エスプリ・ヌーボー」の中で自らの記事をまとめた「建築をめざして」を発表したその著書の中で使用されたのが、この「住宅は住むための機械である(machines à habiter)」
これは例えば飛行機であれば、飛ぶために生まれたものであるように、船や飛行機などの乗り物にもその役目を果たす機能が備わっているのと同様に住宅も住むためのものとして生まれる必要があるということを表現した言葉ではないかとも感じられます。
そして、ル・コルビュジエは建築を設計する上で、基本としていた「モデュロール」というものがあります。これはフランス語で寸法を意味する「モデュール(module)」と「黄金比(section d’or)」を組み合わせた彼による造語です。
モデュロールは人体の寸法と黄金比に基づくもので、人が立って片手を上に挙げた時の指先までの高さを黄金比で割っていくという方式になりますが、彼は「建築やその他の機械の設計に普遍的に適用できる、人体の寸法に合わせて調和した寸法」と評して設計のレイアウトなどにも応用して使っていました。
「住宅は住むための機械である」というようにそこに住むのは人間であり、住みやすくあるための設計であるという彼の考えの原点がそこにあり、美しさを追求したものとも思えます。
サヴォア邸
ル・コルビュジエがこだわった建築の概念の「近代建築5原則」を実現させたのが、このサヴォア邸です。
彼の主な活動をフランスで行なっていました。
1931年に保険会社のオーナーであったピエール・サヴォア氏がフランスのパリ郊外に建設した別荘で、ル・コルビュジエが設計しており、今ではフランスの世界遺産にも指定され、20世紀の住宅最高作品のひとつとも言われています。
近代建築の5原則とは
・ピロティ
・屋上庭園
・自由な平面
・独立骨組みによる水平連続窓
・自由な立面(ファサード)
それは、これまでの西洋の伝統的な建築の概念とは全く反するものでした。
このサヴォア邸もドミノシステムを採用し、当時ではまだ新しかった鉄筋コンクリートを使用することで、ドミノスラブと柱で支え、梁をなくした設計を実現し、これまでよりも構造にとらわれず、自由な立面や平面を確立できるようになっています。
外観で最初に印象的なのがピロティ部分。
ピロティとは壁がなく柱だけ残した状態で外部との空間が繋がっている状態で、現在でも、駐車スペースなどで使用されているケースを多く見かけます。このサヴォア邸も開放感のあり、角度によってはまるで2階部分が浮いて見えるような造りになっています。
そして外部からも内部からも特徴的なのが水平連続窓。直線のように並ぶ窓はそのデザインはまるで外部の風景と内部が繋がっているかのように見え、窓から差し込む水平の光がなど家と自然が溶け込んでいるようにも感じられます。
建物の中央部には緩やかなスローブを設け、1階と2階、屋上まで連続して繋ぐことで、シークエンスを創り出しています。
また最上階に広がる屋上庭園は外部からその中が見えないような工夫がされた設計になっているのもこだわりを感じられます。
室内にはところどころにル・コルビュジエのデザインしたチェアなども置かれています。
この本革とステンレスでまるで近代建築のような形状にも見える美しいデザインのLC2やスマートなフォルムでありながら、ゆったりと座ることができるLC4シェーズロングもこのサヴォア邸のデザインの一部としてそのまるで計算された設計のようでもあります。
この完全な近代建築5原則を実現するサヴォア邸はその建築的美しさで人々を今でも引き込む魅力のあるル・コルビュジエの代表作です。
ル・コルビュジエとアイリーン
2015年にベルギーとアイルランドの合作で製作された映画『ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ』というものがあります。
それはル・コルビュジエが才能あるアイリーン・グレイという女性への称賛や嫉妬が描かれた作品です。
1926年に彼女が恋人の建築評論家のジャン・バドヴィッチのために南フランスのカップ・マルタンに建築した「E1027」はル・コルビュジエがかねてから提唱していた近代建築の5原則を見事に具現化されており、先取りされたものでした。
最初、彼はその作品を称賛していましたが、次第に嫉妬へと変化していきます。彼はあまりの居心地の良さにここに入り浸たり、勝手に壁画まで描いてしまうのでした。「E1027 」はル・コルビュジエの作品として数えられることもあり、長らくはアイリーンの存在は隠されていました。
その後、第2次世界大戦と共に「E1027」の存在は忘れ去られ、戦後には競売にもかけられますが、それを買い戻そうと奔走したのは紛れもない、ル・コルビュジエだったのです。彼はアイリーンに嫉妬しながらも、近代建築の5原則が表現されたその美しい「E1027」を誰よりも愛していたのかもしれません。
そして、ル・コルビュジエは1965年にこの「E1027」のある南フランス海のカップ・マルタンの海で海水浴中に心臓発作でこの世を去るのです。
知れば知るほど、二人の天才的建築家であるが故の惹かれ合う互いの才能が導くストーリーなのだと思えてくるのです。
まとめ
多くの作品を生み出し、新しい建築の形を創り上げてきたル・コルビュジエ。
この近代建築での改革は住むための住宅をこだわりながらも美しさも追求した設計であったからこそ、現代でもそれらのデザインは全く衰えることなく最高の名作なのだと言えるのです。
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